ウラノスの憂鬱 - 景観

ウラノスの憂鬱

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学士

 つい先日卒業論文を出し終わってちょっとした節目にいる。終わってみて学士、修士って案外すごいものだなと思った。限られた時間で、できるまで遠くまで走る競争のようだ。石川賞を取った先輩は止まることなく、ずっと走っていた。あまりにも長い時間、周りの人の走るところ(それは都市を解体し、積み上げることのように思うが)を見てきたので、その走りっぷりに感染してしまったように思う。それで熱を出すかどうかは自分にかかっているのだろう。反吐が出そうな言葉で熱を出すことをためらうのか、ぐちゃぐちゃにして再構築するか。
 とは言っても自分の考えや身体の一部が変わるということがどれほど難しいことかは身をもって実感している。でもとりあえず感染することを受け入れたのではないかな、と自分では思う。

 
 

快感

え、あ、何?卒論提出2週間前やで。というのに寒いので家から全く出たくない。はぁ。卒論見るのいやや。研究の一番のモチベーションは知的な快感やと思うんやけど、そんなもんない。「都市における神社の見え方の研究」というタイトルなんやけど、わからん。そもそも、「見え方」を調べて何になんのか。ということを、音楽を聴いて興奮しながら書こうと思う。中川理著「風景学」を参考に。建築畑という外部の目線は、中村良夫先生の著作を読み、肌に合わんなと思う僕に示唆を与えてくれるんじゃないかしら。しかし、師事する教授の教授が肌に合わんとは、そりゃ肌に合わんと思うわけだな。こりゃ。肌に合わんというか、思慮深すぎる、というか。そして、それが人間の生きる豊かさを考え、実行する両方の立場に立つとなると卑屈な僕にとっては、少し荷が重過ぎる気がするのだ。。。
 まず、景観工学が扱う風景は「美」であることが評価の根拠である。何のための評価というと、工学という立場から、最終的には、人々の幸福のために構造物や街並みなどの形にすることが目的であるからである。そもそも「風景」とは、個人の主観を超えて、人々の間に共有される価値観である。また、「美」とは、その時代の科学観や宗教観によって現われる崇高さ(サブライム)や、風景画に現われる自然環境の眺めが持つ不規則さなどを良しとするピクチャレスクという価値観である。しかし、人々の間に共有される価値観である「風景」が極めて個人的な判断基準である「美」で判断できるかというと、そうではない。そこで、景観分野でやたらと引用されるケビン・リンチのイメージマップや、眺めを数値化し、計量心理学を用いた快適性を用いた測定法が用いられるわけですな。ここで、著者はこの評価指標の変化を「美」から「快適性」と言っているが、これは間違いではないかと感じる。ケビン・リンチと計量心理学はどちらも、多くの人のインタビューに基づいているわけで、ここでの括りは「美」から扱いやすい「指標化しやすい評価構造」にしたというだけの話だと思う。そして、これは景観工学が心理学を咀嚼しきれていないか、あるいは、「美」という定性的なものを分析しきれない心理学の限界に起因しているものだと思う。
 しかしながら、当然、景観の指標が表面的なものでしか捉えることしかできない即物的なものになってしまう。そこで、意味を包括する人に注目する「生活景」が風景を価値付ける指標として登場する。これも景観分野でやたらと引用される。
 ところで、この著作は風景の認識のされ方を時間軸に沿って解説しているのでわかりやすいが、フーコーのパノプティコンの引用が、よくわからない。主客二元論によって、遠近法が生まれたくだりはわかる。しかし、パノプティコンの引用によって「近代社会のまなざしによる支配の機構」が眺めにも適用されると言うのは良いのだろうか。パノプティコンの本質は、囚人からは看守が見えないことによって、次第に囚人が自ら自分を律していくという、近代の人間の監視形態を指すのではないか。近代以前→管理者と被管理者。近代→管理者=被管理者。になるという効率的な監視形態のことを。時々、twitter上で行動を監視し合うことをパノプティコンであると発言している人がいるが、人と人が監視し合うこと、つまり管理者と被管理者が分かれている状態は近代以前の監視形態ではないのだろうか。と、まあ、多義的な世界を一通りの解釈しかできない数字に還元することで世界の体系化を図る理系の考えとしては、引用の仕方によって意味が異なる発言の扱いは難しいことよのう。
 話は逸れたが、つまりはホットトピックとして風景の価値が「生活景」に落ち着いているということがわかった。生活景については後々にまた、書こうと思う。この著作は風景の在り方を時間軸に沿って書いているので、景観工学で今話題にされようとしている「身体性」や「パターン」については触れられていない。しかし、論文を読んでいても景観系の話題が今だにケビン・リンチのイメージマップを多用していることを鑑みると、学問体系の未熟さと、時代に追いついていない感がある。そして、論文をたくさん読み、ワークショップに参加し、まだ僕が誤認していることとして、同じ価値観を共有するためのコミュニティ再構築を景観工学が目的としているのではないかということがある。歴史的街並みの保全を鵜呑みに良しとするなど、風景の根拠を安易に求める「歴史主義的美観主義」であり、多様化する価値観の時代を無視している。歴史的街並みに関して言えば、身体性、アイデンティティなど別の切り口もあるが、まだ、よく理解していないので、後ほど考えたい。
 さて、ここで風景の変遷を捉えてきたわけだけれども、自分の論文とどう結びつけることができるのか、まだ言ってへんかったことよのう。さて言おう。それは、ただの調べ学習であると。樋口忠彦氏の「日本の景観」をモデルにしようと考えていたけど、著作は見え方の分析と、日本の集落の存在形態のモデルは何ら関係していない。よって、僕が想定していた見え方によって、存在の構造を明らかにするということは無駄、というかできないのである。見え方によって明らかになるのは指標だけである。
 調べ学習か。。。がく。。。期限に間に合わせることを学ぶしかないか。。。快感を、快感をくれー。
 
 

九州旅行

行程
宮崎空港→鹿児島湾→油津(日南市)→日向市→高千穂峡→竹田市→大観峰(阿蘇市)→熊本空港
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まず、14日の10時30分に鹿児島空港に着く。
その後、近くの鹿児島湾に行く。
はっきり言って何が良いかわからなかったが、その通り、講評では佐々木先生にけなされている。
防波堤の石積みが保存、活用されていることが評価されているのだろう。
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次に、小野寺先生がデザインした油津の広場を見に行く。
油津がある日南市は飫肥杉と呼ばれる杉の産地であり、温度が高く、他の杉よりも強度がある。
その杉を使い、夢見橋は作られている。
小野寺先生は耐久性に弱いことから杉を使うことに難色を示していたが、地元の人が絶対に大丈夫ということで5分の1模型を作り、説得したという地元魂あふれる橋である。「東京の人は杉をわかっていない」という話が印象的だった。専門家とはいえ、地元の知恵には及ばないところがある。両端から片持ちゲルバーの上に部材がもう一つ乗っていて、木材だけで組んであるので美しい。天井も構造物と一体化していておもしろい。天井が曲線で光が入る、広場のレンガなどはルイス・カーンの影響をうかがわせる。
地元の高校生が橋の上のベンチでチュウをしていたのが印象的だった。
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<引用>http://www.m-sugi.com/02/m-sugi_02_ono1.htm
現在は左の植栽ますにゲオが、交差点の角には郵便局がある。このパースを見ると、それは撤去される予定だったらしい。なくなれば、広場へ至る階段がとても効果的だろう。
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油津の堀川運河は江戸時代に、木材を運搬するのに使っていたらしい。
この運河を作るのに、山を削ったというのだから、ものすごい。
現在はほとんど使われていないらしいが、飫肥杉のアピールのために、チョロ船という飫肥杉を使った船が2隻あり、乗らせてもらった。すごい。帆を立てて走ると気持ちよさそー。
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内藤先生がデザインした日向駅。
これも杉を使ってい。透明感があって、なおかつ、構造材がはっきり見えて、美しい。
前の広場も美しい。子どもが水で遊んでいて、人が楽しんでいる風景が良いというのを実感。
コピー ~ P1020017
日向市にある美々津橋。上路スパンドレルブレースト鋼アーチである。
細かいトラスが繊細。水面の表情にはトラスのアーチが合う。東京タワーがシンボルになり得て、スカイツリーが気持ち悪いのはこの辺に鍵があるのではないか。
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溶岩によってできた地形。
岸壁が柱のようである。
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竹田市に行く途中の道で。
山に囲まれた水田の中に民家が点在している。
美しいと思うのは自分をその生活の中に投影しているからに違いない。
そして、美しいと思うことはそこに住みたいということだ。
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最も美しいとされる、白水ダム。
火山灰で地盤が軟弱なため、水流を弱める必要があったため、なだらかな曲面になっている。また、両側の水流は中心に向かっていて、水流が強くなったとしても、弱める働きをしている。
微妙な変化が見るものを飽きさせない。
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大観峰から眺めた阿蘇市。正面には、仏様が寝ているようにみえる寝観音が見える。
なだらかな斜面の山、後ろは牧場であるのだが、そこに囲まれた田んぼの水面が美しい。
誠実な生活の営み、というのはこのような風景のことだろうか。