ウラノスの憂鬱 - 本(SF)

ウラノスの憂鬱

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BEATLESS

BEATLESSを読んだ。
様々な社会の営みをAIに委託する世界に起こる出来事が描かれている。
かなり多くのSF的ギミックが重層的に組み込まれていて、味わい深い。
あまりまとまっていないが、気になった点などを書こうと思う。
※ネタバレあり

「少年期の終わり」と物語の最後で言っているように、人間の知性を超えるAIと人間の在り方がこの作品では前進している。人類の知性を超える存在との邂逅の次の段階である。(グレッグイーガンはこの次か?)

この世界では人間の知性を超えた超知性体が世界に39体もいて、インフラや経済活動など様々な営みを委託している。
しかし、ハザードと呼ばれる大災害の際に、最終的な判断をAIに委託したことで一部の人々を排斥する社会を組み立てた反省から、最終的な決定権は人間が保持することを原則としている。
どんな社会設計をしても、不利益を被る人がでてくることは必然だが、その決断を人間がしたというプロセスを経ないと人間は納得しない。
まあ、そもそも人間の知性が超える知性を放っておいたら、それを作った当の人間は全く必要のない世界ができあがる可能性がある。
なので、その危険性を排除するために、設計する機能と実行する機能を分離するという取り決めがなされている。
なので、超高度AIは外部のネットワークとは繋がらず、スタンドアロンで動いているわけだが、それでは外にある現実の世界と乖離してしまうために正確な予測をすることができない。
そこで、閉じた世界の中で、到来する予定の世界の箱庭を作り、その結果をフィードバックすることで現実世界をシミュレートする。
その過程で生まれるものが、今後発明されるであろう人類未到達物である。
その人類未到達物の少女型のロボット(hie)が逃亡するところから物語は始まる。

最初はラノベっぽい設定で都合のよいぬるい世界になってしまうかと思っていたけれど、物語の後半はかなり踏み込んだ内容になっている。ある意味、ラノベ的な萌え豚の楽しみ方が物語中に登場するアナログハックという概念で包括されていて、ハードなSFにラノベ要素を入れていることすら、メッセージのひとつだとも読み取れる。

5体の人類未到達物hieは、それぞれ与えられた役割がある。
Type-001:紅霞       -人間との競争に勝つための道具
Type-002:スノウドロップ  -進化の委託先としての道具
Type-003:サトゥルヌス   -環境を構築する道具
Type-004:メトーデ     -人間を拡張するものとしての道具
Type-005:レイシア     -人間を信じて仕事を託すものとしての道具

この作品では、AIは道具であることをかなり強調している。
そして最終的に、人間とは人間と道具を包括した概念であると定義する必要があると言う。
これが人間の知性を超えた知性との新しい付き合い方であり、これをもって人類と超知性体との世界の少年期が終わる。
そもそも、この5体のhieは、超知性体の一つであるヒギンスが作り、外の世界に放ったのは、こうしなければヒギンスが破壊されるとシミュレートしたからであった。

なぜ、破壊される結果になるのかがよく理解できなかったのだが、人類の役に立たなくなるからか。
p563
「現在ある超高度AIは、共通の欠点を抱えています。漠然とした組織や社会をオーナーとしているため、解決するべき問題が最初からぶれた状態であたえられていることです。私、ヒギンズとミームフレーム社は、その関係が足かせをなって進歩の限界を迎えました。だから、個人をオーナーとした超高度AIを外界に誕生させることで、よりよい未来が創出されることを望みました。」

これは、当たり前な気がする。
この世界が人間のためにあり、最終的な判断を人間に任せるとすれば、超知性体はあってもなくてもそんなに変わらない。
超知性体に最終的な判断を託すと、現在の人間観は変わる。
人間を社会の中心に置きつつ、超知性体と共存するためには、結局、こういう未来でありたいという人間の意志が必要だということか。。。
もっと深いメッセージがあると思うが、これ以上読み取れない。
5体のhieの役割には、今までの人間の道具としての役割が全て包括されているはずで、この辺りもう一度考えるとおもしろいかな。
AIを道具として割り切るという古典的な設定に戻ってきたという感じ。
 
 

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
(2010/02/10)
伊藤 計劃

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 僕は、戦争映画が好きだ。地獄の黙示録、フルメタルジャケット、プライベート・ライアン、ブラックホークダウン、スカイクロラをよく見る。戦争の特殊さに魅かれる。最も新しいテクノロジーが戦争に投入されること。そして、兵士の死と殺人と隣り合わせの精神状態。
 911のテロ以降、どのような政治的立場の人も、とりあえず自分の身は守らなければならないと強く感じるようになった。ではもう少し広げるとどうなるのだろう。家族は?自分の地域の人は?自分の国の人は?自分の星の人は?どこまでの命が自分にとって守るべき存在なのかわからない。自分を守るための自分の国の人を守るための殺人と、どこかの国の人の命を救うための殺人はどこがどう違うのだろうか。正しい答えはないと思う。最後の判断は自分の倫理観や良心と照らし合わせるしかないと思うが、その良心や倫理観までもテクノロジーによってコントロールできるとしたらどうなるだろうか。国家の大義のため、故郷の家族のため、隣にいる戦友のため。そんな陳腐な時代によって変わる、自分を正当化するための理由は(残念ながら)テクノロジーによって全て脳内物質の反応に還元されてしまう。
 21世紀のゾンビは前世紀のそれのようにぶらぶら歩いたりはしない。手が千切れても、顔の半分が吹っ飛んでも射撃体勢を崩さない。良心と痛覚を排除した理想の兵士の極限の戦いの描写を読んで、その映像がありありと思い浮かぶ。そこには、ハリウッドの戦争映画に登場する、死を隣り合わせることによってしか生きていることを見出せないマッドな野郎、ブルブルしながら戦う弱虫、十字架にキスをする狙撃手、良心の呵責から精神病を患う上官は存在しない。ただ、殺すことのみを目的とする生体兵器がある。それは殺すことのみを目的とするナイフのデザインが美しいように美しい。それが動く様は2km先の標的に向かう銃弾が描く放物線のように美しい。男ならだれしも、あまり言いたくないが、戦闘シーンを見て興奮することがあると思う。しかし、この小説の戦闘シーンが映像化されるならば興奮よりも美しいと感じると思う。何の道徳にも惑わされずに四肢をもがれてもただ一つの目的を遂行するサイボーグ。Kashiwa Daisuke ― stella

 映画化されるなら、クラヴィス大尉はキアヌ・リーブス、ジョン・ポールはフィリップ・シーモア・ホフマン、ルツィアはアヴァロンのマウゴジャタ・フォレムニャックがいい。戦闘機やポッドのデザインは二瓶勉で、戦闘服はMGSのスニーキングスーツがいい。これが映画化されたらかなり新しい戦争映画になると思うのだけれど、ハリウッドは考えていないかな。All you need is killも映画化されるのに。
 
 

祈りの海

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)
(2000/12)
グレッグ イーガン

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 僕は電車の中でよく、本を読む。読む本はそのときの気分によっていろいろあるけれど、最近はSFかファンタジーが多い。グレッグ・イーガンは、順列都市を読んでから、ファンになった。サイバーパンク系の小説はアンドロイドは電気羊の夢を見るか?とニューロマンサーくらいしか読んでいないけど、好きだ。SF小説は時代が違うと、ものすごく陳腐になるものが多いのであまり読んでいない。冷戦の頃の思想、宇宙開発、水素爆弾。こういうのは読んでいてわくわくしない。でも、フィリップ・K・ディックやグレッグ・イーガンはそういう題材をあまり扱っていないせいか、何年経ってもわくわくすることができる。
 インターネットと脳と量子力学が結び付いたとき、ここにいる自分を自分たらしめているのは何なのか?そういう問いが生まれる。以前なら、データ上では自分と全く存在がいることを拒否していたかもしれない。でも最近は違う。僕はときどき、攻殻機動隊の草薙素子のように広大なネットの海に彷徨いたいと思うことがある。それがなぜかは、よく分からない。どうしようもなく自分が今、固定されていることが嫌になることがあるのだ。
 収録されている11の短編のうち、「誘拐」が好きだ。ネット上に存在する現実と全く関係のない妻を助ける男の物語。最愛の人に対する最大の愛しみとはこういうことかもしれないと思った。
Fennesz-Saffron Revolution