ウラノスの憂鬱 - 思索

ウラノスの憂鬱

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4/14

4/14

早い時期に信ずるに足る基本的な考えを選びとり、それから考えを広げ、深め、磨く。
そして最初の選択が正当な理由についてなされれば、その生き方は巧くいく
しかし、それは自己への倦怠をもたらす。
知的な自己満足は人間を駄目にし、知的な対決(自己を自分自身と対決させること)ほど人間を活気づけるものはない。
-カシミール・マレーヴィチ-

□ボクは巧く生きている人間は好きじゃない。
かといってボクは巧く生きていないわけじゃない。
(でも本当は巧く生きていないんだよね。でも自分のこと好きなんて言いたくないな)

□何で生きているんだろうと考えることは、たぶん、生きていることと同じだと思う。
そして、そう考えることは自分の存在を否定する意味が幾分か含まれているような気がする。
自分の存在を否定(死)することを常に意識することは生きていることと同じだろう。
巧く生きている人が、全て、最初から巧く生きられる考えを持っているとは思わないけれど、その後の人生が全て巧くいっているとしたら、それは何かをごまかしているに違いない。と思う。

□何かを失っても、自分の身を守るために正当化したくない。
無くなるものは無くなるべきだし、死ぬべき者は死ぬべき。
それでもやっぱり生きるに足る理由があると、なぜか、ア・プリオリにわかる。

□「すべき」「だめ」枠組みにそった命令と、否定は、「しよう」「いい」という意志と肯定よりも、人生の道筋を示してくれるけれど、なぜ生きるかは示してくれない。

□でもボクはやっぱり枠組みに当てはめたり、否定することに相性がいい・・・その場合、他人に否定されることで自分の存在を意識することが多い。自分で「すべき」「だめ」と考えることはそのまま受け入れられるけど、他人に言われると反発し、自分の存在を正当化したくなる。

□なぜか、生きるに足る理由があるとわかっているからこそ、自分の存在を正当化すること、は間違っていないと言いたい・・・

□正当化?違うな。正しくなくてもいい。正当化は生きることについて言っていない。社会で生きていくために多数派である、「正」の側につきたいだけだろう?そしてそれはなぜか。安泰な生活で鈍感さを養い、生きやすくしたいからだろう。

□生きることに足る理由がある。しかしそれは生きることに対して鈍感になることじゃない。生きることに足る理由が見つかったなら、そのときは死んでもいい・・・

□でも注意しないといけない。生きることに対して敏感になると思っていることが、自分を正当化していることがある・・・

□そう、今日は誕生日。ボクは生まれてから22×365日=8030回も昼と夜を繰り返し、あまりにも生きることを経験してきたがために、鈍感になろうとしている。自分の限界を推し量り、何とか鈍感に生きる道を探そうとしている。

□もう一人のボクがささやく。鈍感でもいい。ただ、薄っぺらく生きるだけでもいい、と。敏感に生きているフリをして満足していたいのだろうと・・・

□もう一人のボクは常に反論してくるために納得がいく答えがでることはない・・・悲しいことにもう一人のボクは常に外にいるので二人が同じになることはない・・・

□一人で生きていくことは限界かもしれない。誰か、生きていくに足るボクと全く交わることのない外のもう一人。その人を探すか、作るしか・・・

 
 

「美しい花がある。花の美しさといふものはない」

「美しい花がある。花の美しさといふものはない」
という小林秀雄の言葉があるが、それは一体どういうことなのだろうか。

そもそもこれを考えるきっかけというのは、課題の資料を探しに図書館に行ったとき、我が大学の教授が
「美しい花があるのであって、美しく見える花があるのではない」
と間違った引用をしていたのを友人が発見したからである。

小林秀雄のことはあんまり知らない。
のでつらつらと間違いを書くのだが、
「やろうかやらないか少しでも迷ったときはやるほうが良い」
「100%の力を出さなければその面白さはわからない」
という信条に則って考えてみよう。

西田幾多郎の純粋経験とは、この色、この音は何であるという判断すら加わらない状態のことを言う。未だ主も客もなく、知識とその対象が合一している。これが経験の最醇なるものである。

思惟というのは心理学からすれば、表象間の関係を定め、統一する作用である。
その最も単一なる形は判断であって、すなわち二つの表象の関係を定め、結合するものである。しかし、我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、反ってある一つの全き表象を分析するのである。例えば、「馬が走る」という判断は「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。

美しい花という一表象を分析した結果のみにおいて「あぁ、美しい花だ」と思うのであって、「この花は美しいイデアにより近づいている、よって美しい」という考え方をしないということだ。

「美しい花があるのであって、美しく見える花があるのではない」
この後の文は間違っている。
純粋経験では、確かに見ているという感覚さえない刹那のことを言うのだが、その後には美しく見える花が存在しているのではないだろうか。

しかし、美しさと花が分離するものではなく、美しい花がそこにあるということを言っているという点は間違っていない。
 
 

Fear

最近 心を蝕む不安
学ぶ学校がもう直に終わるということ
そして21歳ということ
そのことによって変わらなければならない、つまり永久に失われるものがあるということ
好きなものが好きじゃなくなるかもしれない
苦しいこともなくなるかもしれない
なぜ、そこで、そのように生きているのか
ということをはっきりしなければならない
打算的、ということは欺瞞なのだろうか
どうすれば、自信満々に、誇りを持って生きられるのか
わからない
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そのことが不安で、煙草の量が増えた。


自分のやりたいことをやっているのが幸せか?
社会に一番貢献できると思っている方法が幸せか?

現実との差を埋められるのか?
そうして結果が出せるのか?
結果を出すために100%の力を注げるのか?注いだと言えるのか?

自分が生きたい生き方ができるわけじゃない
そしてその生き方が一番いいわけじゃない
わかっていても一番生きたい生き方に進むのは、まだ知らない世界を知る手順なのか?
わかっていても一番生きたい生き方に進まないのは、ダメな人間だからか?なぜ、理想があると分かっていてもそれに進むことができないのか。

自分の進んできた道が一番と自負する力が必要になってくる
多少、道を狭めようとも

怪我しても自分はいいけど、周りの人は悲しくなるよね
そういうことが原動力になればいいのだけれども

自分の中だけで考えていても何の解決にもならない
失敗しても、実際に、動かなければ分からないことが多い
そのことが、自分を構築するヒントになる
追い込む材料になる

なぜ、そうしているのか、ということに答えを出さなければ生きていけないので考えている
なぜ、そのような問いを立てられるように、苦しんで生きるような、生き方しかできないのだろう

運命といえば、やる気がでるのかもしれない
神様の啓示だとすればどんなに楽だろうか

でも僕は信じない。
はっきり言ってどうでもいいようなことを奮い立たせる口実じゃあないか
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最近、どうでもよくなることがある。(前から)
「永遠回帰」にヒントがあるのではないかと思う。


例えば、好戦的な集団が襲い掛かり、人々を殺戮し、金品を奪っていったとき、強奪された人々は好戦的な集団を「悪いやつら」とよぶ。
それに対して何の落ち度もない自分達は「善い」
武力や知力で勝負にならない場合に「道徳的尺度」を持ち込み、相手に対して心理的優位にたって、溜飲を下げようとする態度から生まれたのが「善悪」だとニーチェは言う。
その根底にあるのは強者・勝者に対する弱者・敗者の妬み(ルサンチマン)に他ならない
すべての価値は人々の中にあり、あるいは社会心理として存在するルサンチマンによって生み出された。いかなる価値にも、じつは価値はない。また、善悪の根拠として想定された神やイデアももはや無用である。こうした価値の脱価値化がニヒリズムである。

ニヒリズムを別の角度から見ると、「永遠回帰」思想に帰着する。現実社会においてはすべてが絶え間なく変化しているように見えるが、すべては同じことの繰り返しで、しかもそれが永遠に続く、というのである。変化は「よりよい」方、あるいは「より悪い」方への変化だが、そもそも「よりよい」「より悪い」と言えるのは善悪の尺度が存するときに限られる。すでにニヒリズムによって善悪という価値が欺瞞であることが判明した以上、もはや「よりよい」「より悪い」とはいえない。内容がいくら入れ替わっても、つまりは同じことの繰り返し、永遠回帰なのである。
永遠回帰という事態を怖れ、目を背けるのではなく、その事実を頭から呑み込むことができる。なにをやっても結局、同じことだという事実は、すべてをむなしくするものである。
だが、それでも、「よしもう一度」と心から言ったとき、すべてを受け入れることができる。それができるのが「超人Ubermensch」だ。
「人間は希望を持つ存在である。なにも望むものがないとき、人は無を望む」
とニーチェは言う。
なにかを「望む」とは現状にくらべ「よりよい」ものを手に入れることだが、ニヒリズム思想からすれば「よりよい」ということは言えない。
をれを悟ればもはや何も望むことはない。何かを望むのが人間だとすれば、なにも望まない存在はもはや人間ではない。それは「人類」という範疇を超えた存在、すなわち超人である。

永遠回帰という事実を受け入れたときにあらわれるのが「力への意志」である。
「力への意志」において、それをもつ主体は存在しないし、それどころか、自我や主体、「わたし」すらも力への意志の所産なのである。何らかの選択において、ひとは当然悩む。
けれども、悩むとは、すなわち、一方へむかおうとする力への意志と、他方へ向かおうとする力への意志が拮抗している状態にほかならず、選択とは、力への意志動詞の拮抗の結果にすぎない。
われわれは、何かをしようと意志することはできるが、意志を意志することはできない。
選択の結果を人は「わたし」の選択と思う。
こうして一瞬生まれた自分が固定化され、実体化されたとき「自我」という虚構が生まれる。
一瞬の現れを肯定し、そこに見えるものを実体化する傾向をニーチェは「眺望固定病、パースペクティヴィズム」と呼ぶ。
それは絶えず変換する、力への意志を固定し、抑圧するメカニズムだ。



宇宙にそもそも善や悪は存在するのか?良い、悪い選択というのはありえるのだろうか。

最近、景観というジャンルの学問を学んでいるが、多少うさんくさいところがある。
高度成長期を終えた日本を見渡し、経済性のみを重視した建造物がそこらじゅうに広がり、同じ景色が展開されている。
そのような状態に異を唱えた、という印象を持っている。
どこそこの土木構造物は周囲の景観に溶け込んでいて、良い。
ここからの視点場から見える山が、良い。
地域の風土に根ざした、歴史性を考慮したデザインが良い。

高速道路を微妙にくねらせ、周囲の景観に溶け込ませたデザインが良いというのは違和感がある。
歴史性を壊したものもまた歴史ではないだろうか。
田園風景の中に突然現れる鉄塔の景色。
アニメに影響されすぎだって?本来はあってはならないものだって?

ル・コルビュジェの300万人の現代都市は、あいかわらず綺麗に思える。
ただ、都市計画というものはあまりにも複雑すぎて、トップダウン方式では成り立たないということだ。
多くの人にとって、そこが住みやすいか、という基準。
多くの人が共感できるものがあるという前提がないと成り立たない。
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ニヒリズムに陥るのは非常に危険だ。
虚無は健康的ではない。

しかし、現在は希望も絶望もないのではないか。
滑らかな曲線で構成されるチリ一つない美しい未来都市。
廃墟になった高層ビルと無秩序な荒廃した未来都市。
という都市にわくわくするものだが、最近、そういうものがない気がする。
一体、希望が絶望かどちらを抱けばいいのだろうか。

ヒューマンスケールのギリシャの古代都市が住みやすかったかって?
やっぱり巨大な建造物はひとには合わないかって?
必ずや価値が転換するときがくるというのに。



よりよい生き方を選択してるって?
よい生き方っていうのは何だ?
楽しいこと?
楽なこと?
やりがいがあること?

日々に幸せがあることが一番幸せ?
今日はいい天気だ、とか、おいしい食事だ、とか。
今あるもの全てを肯定できる哲学がほしい