ウラノスの憂鬱 - 2009年04月

ウラノスの憂鬱

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レヴィナス

情熱が無い。生きる根拠がない。今、おい火事だと言われ煙が部屋中に漂っている、そんな状況になっても面倒くさくって逃げる気にはなれやしない。そんなわけで部屋中に無気力と精神の死臭が漂い蠅と蛆虫が部屋の隅み置いてあるごみ袋から涌いている。空気が澱み、20年前の吐息と壁紙の裏側の酸い土壁の匂いがする気がする。周りにマンションが隣接しているので、今日が青空なのか雨なのか分からない。独房のような鉄の手すりと飛び出る梁が白い壁紙とのせいでこの部屋が重苦しい。あぁあ。おおい、おおい。と呼びかける。

何もかもがどうでもよくなることがある。何もやる気が起きない。叱咤激励されても有難いとは思いながら、心も体もちっとも動かされない。何事も面倒だ。そもそも、倦怠、怠惰に陥った人間は何に疲れ果てているのだろうか。学校や会社に飽き飽きしているのだろうか。学校や会社に出かけると疲れ果てるから立ち上がれないのだろうか。しかし、学校や会社にでかけなくても疲れ果てている。それほど家族や社会からの抑圧はきついのだろうか。しかし、そのままでいいんだよと肯定されて納得しても疲れ果てている。その程度の肯定ではとても赦されはしないかのように、疲れ果てている。とするならば倦怠、怠惰に陥った人間はあれこれ身体的な行為や実践に疲れ果てているのではなく「実存そのもの」に、疲れ果てているのだ。先ず留意すべきは倦怠、怠惰に陥った人間も排泄のために便器に腰掛ける、水を飲むために蛇口を捻る。行為とは何らかの目的を抱き、その実現のために身体的に動くことである。行為主体は行為の目的を欲求し、行為の目的を実現するためには何をするか分かっている。倦怠、怠惰に陥った人間も、身体的に動くかぎりは充分に合理的な行為主体である。普通の哲学、倫理学、社会科学で想定される主体である。実際、便器に腰掛けるという行為は、学校や会社に出かけるという行為と構造的には何の違いもない。身体的な行為としては何の優劣の差もない。両者の欲求の有様には何の優劣の差もない。学校や会社が嫌いなわけじゃないし、幸せが欠けているわけでもない。こんなことを続けていてもいいのだろうか。こんなもののために自分は生まれてきたのだろうか。学校や会社でうまくやって生きているというそのことに違和を感ずるのだ。とすれば倦怠、怠惰は抗しがたい朝寝坊の誘惑でもなければ、自分の殻に閉じこもる幸福でもない。たまのサボりは楽しいのにどうして引き続くサボりは苦しいのか。

怠惰とは、重荷としての生存に対する、無力で喜びのない嫌悪である。怠惰とは、生きることの怖れである。怠惰は生存を放り出すことを欲する。ランボーの言う「皆で演ずる茶番劇」が自分抜きで演じられることを欲する。怠惰は存在の否定であるが、それでもやはり存在の遂行である。怠惰の苦い本質は怠惰が脱走であることから由来するが、そのことは契約のあることの証しである。-レヴィナスー

死ぬことを選ばないにしても生きることを殊更に選ぶことなく、生き続ける。生きることは思い負荷になる。一体この重荷はどこからどうやってくるのか。レヴィナスは契約からやってくるとする。私達にはそんな契約を取り結んだ記憶はないが、おそらく記憶の始まり以前において、そんな契約を取り結んでこの世界に生れ落ちたのだ。倦怠、怠惰に陥った状態から振り返ってみるならこんな言葉が書かれていたとしか思えない。その契約には「お前にはやりたいこともやりがいのあることも与えられない。それでもお前は生きていかなければならない。お前には生きる意欲も生きがいも与えられない。人生の意味も人生の目的も与えられない。それでもお前は生きていかなければならない。」契約とは生存本能のことであるし、自然法則のことであるし、人間の逃れられない運命のことであるし、人間に課せられた使命である。何のために生きるか。長く生きるため。幸せに生きるため。何のために昨日から今日まで生きてきたのか。何のために今日から明日まで生きていくのか。仕事のため。賃金、娯楽、同僚、家族、余暇のために仕事をする。人生には多くの短期的な目的が堆積し、それらを渡り歩きながら生活している。

人はその職業を愛することができる。人は職業に伴う身体的所作と、その成就に不可欠な事物を享受することができる。人は労働の呪いをスポーツに変えることができる。このような活動の意味と価値は究極的で唯一の目標に由来するものではない。世界は最終項が私達の生存にあたるような効用関連のシステムを成すわけではない。世界は相互に無関係な諸目的の総体に呼応しているだけである。享受すること、効用を離れ、無償で純粋に享受すること、ここに人間性がある。こうして理性のシステムからも本能のシステムからも等しく隔たったところで、仕事と趣味はシステムを成すことなす堆積する。-レヴィナスー

幸せに生きるという目的によって人生そのものに意味や価値が付与されることはありえない。レヴィナスの享受論からすれば幸せに生きることはすでに実現している。幸せに生きるために仕事をしているのではなく、仕事をしていることで幸せに生きているのである。だから、何のために生きるのかという問いに対して、幸せに生きるためと答えても虚しい。幸せが実現不可能だからということで虚しいのではない。現に幸せに生きてしまっているから、そんな目的を掲げても虚しいのだ。幸せについては今、ここで享受している以上のことは、決してこの世では享受できない。この世で生きているというそのことが幸せに生きることである。レヴィナスの生涯を顧みて戦争と虐殺からの生き残りにとって、いきのびているというそのことが、幸せでないはずがない。

ほとんどの人生論は人生の目的と人生の意味を自己実現や自己完成に求めている。今の自分とは違った自分、今の自分が肯定され直した自分、今の人生経路とは違った人生経路、今の人生経路が肯定され直した人生経路、それを探し求めるのが人生の目的と人生の意味であると結論している。それは間違えていない。というよりも人間はいつでも今の自分のため、別の自分のために、自己実現や自己完成のために生きてしまっている。それでも何故、何のために生きるのかという問いが立つときがある。レヴィナスはそんな問いを駆り立てるものを戦前においては「逃走の欲求」、戦後においては「形而上学的欲望」と呼んでいる。倦怠、怠惰に陥った人間は存在することを怖れている。生れ落ちたときの契約に拘束されている。そこから脱出したいのだが、必ずしも自殺という道は選ばない。なぜか。おそらく、死を選んでしまうと根源的な契約に違背してしまうことになると感じているからだ。

逃走は自己自身から脱出しようとする欲求である。すなわち最も根底的で最も仮借なき鎖、私が私自身であるという事実を絶とうとする欲求である。だから逃走は、「無数の人生」を生きたいという欲求とほとんど共通点を持たない。私自身から脱出しようとする私は、制限された生存者としての私から逃れられるものではない。たしかに事実上、人生は選択であり、従って、決して実現されない多くの可能性を犠牲にしている。しかし、そんな事実が逃走に駆り立てるのではない。可能なものを全て実現する普遍的で無限の生存を私が欲求するのであれば、私は根底で平和を実現しているはずだし、存在を受け入れているはずである。しかし、反対に逃走は、まさに、この自己との平和に問いかけるのである。逃走が欲求するのは、私を繋ぐ鎖を断ち切ることだからである。-レヴィナスー

倦怠、怠惰に陥った人間は、逃走の欲求に駆り立てられる。自分に疲れ果てるとは、別の人生経路に駆り立てられるというより、自分からの逃走に駆り立てられるということである。自分の家、会社、学校に疲れ果てることは、自分そのものからの逃走の欲求に駆り立てられることである。ありうべからざる幸せを探しているわけでも、別の人生経路が欲しいわけでもない。自分であること、自分が自分の人生経路をたどること、それを平和に享受することから脱出したいのだ。要するに、何のために、自分のために生きるのかという問いに駆り立てられるのだ、そして、逃走の道が必ずしも自殺に直結しないであるとするならば、むしろ、自分からの逃走の欲求に駆り立てられるというそのことが、契約の履行の一歩と考えられないだろうか。

「真の生活が欠けている」しかし、私たちは世界に存在する。形而上学は、真の人生の不在のうちで出現して維持される。形而上学は「他所」「別の仕方」「他者」に向かう。-レヴィナスー

何のために、自分のために生きるのかと問うとき、形而上学的欲望に駆動されて、真の生活を探し求める。自分のための人生とは別の仕方で他の場所で生きる真の人生を探し求める。当然だがそれは、自分のための人生の中にはない。私たちは、自分のための人生から逃走したいと欲望するからだ。真の人生はどんな生き方なのか。どんなところで成り立つのか。そんなことは自分で決められない。自問自答で決めることはできない。何のために生きるかと自問自答し、何のために、自分のために生きるのかと自問自答を積み重ねて、自分で決められると信じている限り、真の答え、真の人生が示されることはありえない。自問自答を繰り返している限り、自分のために生きることに変わりはないからだ。では、何のために、自分のために生きるのか。→
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小泉 義之

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うる星やつらがめっちゃおもしろい。
最近の、常に発情しているキャラクターが出るアニメとか、マンガとか、確かにおもしろいけど、それは違うぞ!

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この曲線、このかわいいラム!この美しいさくらさん!たまにほろりと泣かされるこの温かいストーリー!