ウラノスの憂鬱 - 2009年10月

ウラノスの憂鬱

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MAD

最近、CD屋で働いていてくずみたいな音楽が多い、ということに気付く。
聴いたことのあるようなメロディ、コンピレーションCD。
くずというのはリスナを小馬鹿にしているように思えるからだ。
このメロディとリズムの構成でリスナは満足するだろうという意図が感じられる。
そんな音楽はいくら可愛くてエロくてサントラに使われていたとしてもくずだ。



ということをクリス・クラークを聴いていて思った。
Empty The Bones Of YouEmpty The Bones Of You
(2003/08/23)
クリス・クラーク

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不規則なリズム、音色は少ないが重厚なメロディ。
かわいいメロディに潜む狂気。
壮大で浮遊感のあるストリングス。
いい音楽を聴くと、その気持ちは言葉で表せないということを実感する。

WARPレコード20周年イベントで幕張メッセに来るらしいので、楽しみです。

 
 

広がる・広げる世界

スウェーデンに留学に行っている友人Tのブログをさっき知り、読んだ。
http://inthetrain.blog67.fc2.com/

つい最近まで一緒にいたはずなのに、物理的にも心理的にも遠くに行っちゃったと感じる。
それはやはり1年前からなのかもしれない。
「高いお金を払ってこんなにだらだら大学生活を過ごすのはもったいない。」
そこから学生団体を引っ張ったり、授業で知り合った様々な人を通して成長し、スウェーデンへ行った。

ボクはそのとき単位取得に向けてテスト勉強をしていたか、だらだらと過ごしていた記憶がある。
彼のブログを読み、もしボクが同じ道筋を辿るとすれば、一年半遅れの地点にいる。という印象だ。

科目にもよるのだろうけど、スウェーデンの授業は実践的でディベートが多い。
授業の進め方についても当たり前のように議論する。
そう考えると、僕が今受けている授業は世界でも珍しいのかもしれない。
単位を取るためだけに面白くない授業をとり、レポートをやっている人なんて他の国にいるのか?
ここは職業訓練学校か?
さすがにグループを決めるときの幼稚な方法にうんざりした。
「類は友を呼ばない」でいきます。
でデートで行きたい場所とかで分類する?普通。
その決め方が悪いというわけじゃないけど、中学の席替えみたいな雰囲気でうんざり。

そういうとき、ボクは視野が狭いとはこういうことかなと思う。
未来や世界のことを考えない視野の狭さ。
自分達のことをよく知らない視野の狭さ。

レポートをやることが自分の世界で今やるべきことじゃないかもしれないという可能性を考えなければレポートもできない。


主体性を持つためにどのような考えを持ち、行動しなければならないか。
そのために、今やるべきことは何なのか。
やるべきことをやる方法を考え、実行する。
そして、自分の変化を信じる。


とふぉりはやっぱすごい!
 
 

ワークショップ

研究室にはまだ配属されていないけど、希望して、研究室のプロジェクトのお手伝いをした。

先生の違う一面が見られて良かった。
相当、個性的な先輩もおもしろい。
その、先輩は一日中「シュシュ、シューシュ?」
というシュシュ語を喋っていた。

・・・あーぁ、後悔することも多いけど、前に進まなきゃ何も始まらないじゃないか!
 
 

困っている人を助けるということ

今日、図書館から帰ろうとしたときに、斜め後ろで「がっしゃーん」という音がして司書の人が運んでいる台車から荷物が落ちた。
僕は、そのまま歩いた。
後ろを見ると、道に落ちている書類を拾う学生がいた。

僕は、なぜ、さっと手伝わなかった(助けなかった)のだろうか。後ろで困っている人がいるというのに。書類が散乱したくらいなので僕が、さっと振り返り、助ける必要はないと思ったのかもしれない。ここには僕の重大な欠点がある。
「他者を自分に置き換え、もし自分が助けてもらう必要がないと思うならば、助けなくてもよい」という考え方だ。
これは他者に対する冒瀆だ。
「他者はあくまで他者であって、自分に置き換えられる」ものではない。
困っている人がいるならば、助けなければならない。
赤ちゃんが泣いていたら、何かをする。
井戸に飛び込みそうな人がいたら、止める。

そんな当たり前のことを妨げるのは一体何だろう。
日ごろの他の人への配慮。
あの人は、一体、何を考えて、傷ついているのだろう。

お前は生まれてこのかたいろんな人の配慮によって生きてきた。何だってそれに気づいていない、あるいは気づいていない振りをしてその配慮を受けていないような素振りを見せ、周りの人に配慮していない、ということを正当化するのか。
「俺は静かに生きたくて周りのやつには干渉していない。それなのに、周りの奴等はなぜ、俺に干渉するのだろうか。」
それは周りの奴等はお前ではないという簡単な事実だ。

無条件で他の人のことを考えるということ、それがこの世で生きているという幸せを享受している人のやるべき簡単なことだ。


明日の朝6:30の新幹線に乗って岐阜県に行かなければならない。
おきろー
 
 

情報自由論

授業で「私の考える現代の都市問題」をレポート2枚に書くという課題が出たので、何かヒントはないかと最近はまっている東浩紀のblogを過去4年分くらい見ていた。
東浩紀が線路に落っこちて血だらけの記事とか、こんなん公開していいの?という動画とか、子どもが生まれたとか、これが無料で読める世の中は便利だなあと思うような中身の濃い記事とかいろいろあったのだが、それにしても、ライトノベルから、情報社会に至るハードなものまで的確に論じる思考力はものすごいなあと思う。(あほみたいな感想だな)
うん。
その中で、元々、単行本化される予定だった論考が、東浩紀の意向で取りやめになり、HPに公開しているというものを発見した。

「情報自由論」
http://www.hajou.org/infoliberalism/index.html

情報社会と自由の関係を批評家・哲学者の東浩紀(僕)が、書き記したもの。
その内容。
大きな物語、イデオロギー、共通の価値観が消滅したポストモダンの社会。
ポストモダンの社会秩序は価値中立的なインフラ・アーキテクチャの層と、価値志向的なコミュニティ・イデオロギーの二層で成る、つまり、必要最低限の共通サービスの上に市民がそれぞれで選べる多様なコミュニティ・サービスが乗ることを理想にしている。
ポストモダン以前のように、特定のライフスタイルを強制させられない。
このことは、ポストモダン社会が2つのタイプの権力を使い分ける社会であることを意味する。
「規律訓練方権力」と「環境管理型権力」である。

まとめようと思ったけれど、全部コピーになってしまうので、やめよう。
とにかく、SF小説の想像力を超えるような工学の急速な進歩により、法の在り方が問われ、果たして私たちの自由がどのようにして奪われているのかわからない。警官が町中に見張っている光景には嫌悪感を抱く。しかし、インターネットの閲覧履歴、レンタルビデオ屋のレンタル履歴、監視カメラ、ATMの使用履歴が保存されていること、に対しては嫌悪感を抱かない。それは、権力の変容に私たちの想像力が追いついていないためである。
「私たちはその暴走を制御する知恵を身につけなければならないのだ。」


看守がいつ見ているかわからない監房では、囚人は常に看守の目におびえなければならない。
そのうち、自分で自分を見張るようになる。
情報処理装置が発達した結果、そのような人間の内面に踏み込む必要すらない。


様々な言論を読み、レポートを書くというときに、自分は何て記憶力が無くて、論理力がなくて、思考力が無いんだろうということに気づく。


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(2006/10/11)
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