無料HP ウラノスの憂鬱 - 2010年02月

ウラノスの憂鬱


2010年02月 の記事一覧

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2日前、友人が交通事故で死んだ。
スキーの帰り道、友人が運転していた車が対向車線にはみ出したらしい。
友人を含め、3人が死んだ。
対向車の人を含め、4人が重症を負った。
昨日、そのことをバイトの打ち上げのときに電話で知った。
何だか気持ち悪くなって帰らせてもらった。
帰り道、電話をしながら泣いた。
雨が降っていたけど、傘を差さないで帰った。
煙草を吸ってその辺に捨てた。
踏み切りの前で、案外、電車は近くを走るのだなと思った。
そして、鉄が擦れる異常な音を出すなと思った。

何でだろう?
友人とは幼稚園から中学まで同じ学校に通った。
それほど仲がいいというわけではない。
でも、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまった。
いなくなって初めて、その人の存在の大きさを知った。
思い出が浮かぶ。
見かけによらず泳ぐのが速かった。
一時期、陸上部で一緒だった。
何で陸上部に入ったかまだわからない。
先生に砲丸投げにエントリーさせられていたのをよくネタにしていた。
昨日、手術をしたから自転車に乗れないと言って、わざわざキックスケーターに乗って遊ぼうとしていた。
明らかにお尻を手術したのに、ずっとそのことを隠そうとしていた。
中一の頃、ボクは落ちていたソースの袋を通学路の柵の空洞に入れていた。
それは、半年くらい残っていてちょっとした秘密だった。
ある日、たまたま、友人と会い、一緒に学校へ向かった。
「よかった。まだあるわ。」
「何が?」
「ソース隠してんねん!」
「何でそんなことしてんの?」
「いや、いつまであるんかなあと思って。」
「ははは。変なことしてんなあ。」
初めて、秘密を打ち明けた。
ものすごく、しょうもないのばっかしでてくる。

写真を見ると、車はフロント部分が鉄くずのようになっていた。
相当な衝撃だったのだろう。
そんなことが突然起こるということを初めて知ったような気がした。
死んだ人の未来が一瞬で消える。
友人を知っている人の心から一瞬にして消える。
恐ろしい、悲しい、とかそういうのではなく、何となく気味が悪い。

電話をしてくれた友人と話していた。
なぜか、わからない。不謹慎かもしれない。
でも、頑張らないといけないなと思った。

ボクが生まれてから知っている人が4人死んだ。
世界は流動しているのかもしれないけど、頼むから死なないでくれよ。
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テストが残り一科目になったので、急に、プツンと緊張の糸が切れた。といってもそれほど根をつめていたわけではない。
今回のテストでわかったこと→何もわかっとらん。わかったことは高校生みたいな自意識の悩み①・・・②・・・

家に帰って日経新聞を開けると、甲斐扶佐義さんの名前とともに「ほんやら洞」がでてきたので、ほうほう懐かしいなあと思いながら読んでいた。ほんやら洞の本店は京都今出川通りにある老舗の喫茶店でふぉーくのメッカやったとか。夏休みに、西陣のほんやら洞で朝ごはんを食べた。パンがもちもちしていておいしかった。お客さんも少なく、のんびりした時間を過ごした。

そういえば馬場にあるマイルストーンちゅうジャズ喫茶にも最近行ってないなあと思い、HPを見た。ここのマスターの自伝がおもしろかった。成り行きで高校教師が教授やってる大学に入り、2年で退学。その頃は学生運動が吹き荒れていた。その後、一緒に喫茶店やろうと言っていた友人が死んで、親の資産を担保に入れて開業しただの、佐野史郎がライヴやっただの、警察来ただの。
以前、学科の教授が京大の前にある進々堂みたいな、ずっしりと構えたアカデミックな喫茶店は馬場近辺にないねえ、とか言ってたが、まあ、マイルストーンが雰囲気的に一番近いのではないかと思う。その内、確実につぶれるだろうから行っておこう。何しろ、いつ行ってもお客さんは多くて2人しかいなかったのだから。

ブラマヨの吉田は、どうやって息したらいいかわからんぐらい体の調子が悪いときに、自分の考えていることをノートに書きまくっていたらしいが、それは鬱病を治すための一つの方法らしい。ほうほう。まあ、何でも軽度の鬱と診断されるこの世の中だから治し方も様々あるだろう。鬱というものは生きることに疲弊して、何もかもが空虚に感じられることだと思う。

政治学者のフランシス・フクヤマは抗鬱剤として有名なプロザックの流行は現代人の人間観を大きく変えつつあると論じている。結果として、その服用者は現実には困難に陥っていても、その状態で満足してしまう。(東浩紀・文学環境論集)

ドトールでコーヒーを飲んで、京アニのアニメを見る、などと、自分が自発的にそう行動しようと選択したと思っていても、その選択する前提条件がすでに決められている可能性があることは消費社会の産物なのかもしれない。ナイキのエアジョーダンがヒットしたのは、ナイキがマイケル・ジョーダン・ファンの心理をくすぐったからであり、商品を売るためにナイキが選択肢を用意したものではないか。エアジョーダンを履いている人は、(今はいないかもしれないが)商品が高額なので、マイケル・ジョーダンが好きなのだろうと意志が感じられ、好感が持てる。しかし、街中でジョイ・ディヴィジョンやチェ・ゲバラのTシャツを着ている人を見ると、たまに不快になる。それは、絶対お前はニュー・ウェーブなんか知らないし、ゲバラが医者ってことも知らない、空気に流されるオシャレもどきを批判したくなる精神からくるのだと思う。しまいには、ニーチェのTシャツを着ている人を見ると、この人はなんて大きなものを背負っているのだろうと尊敬すらしたくなる。まあ、でもニーチェって、神様を殺したらしいぜ、っていうパンク精神があればかっこいいなあ。

自主的に選択するということは、どのくらい重要なことなのだろうか。自由な意志をもつことが人間らしい生き方という。。。
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岩倉玲音

Author:岩倉玲音
25歳の、、、何でしょうか?

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