ウラノスの憂鬱 - 2010年05月

ウラノスの憂鬱

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最近、地元の友達と文通を始めた。
スカイプよりも千倍は不便で、80円もかかるが、生々しい字はやっぱり心が籠もっているなあと感じる。
最近は、友達と酒飲んで麻雀やってる、という文章もチャットなら、で?ってなるけど、手紙ならフムフムそうかあ、麻雀楽しそう。と感じる。
しかし、今の時代、男と文通するのは気味が悪い。知的じゃなければなおさらだ。
昔の文豪は文通して議論していたというが、やはり、手紙では議論しなければならない。
関係性に飢えている?


 
 

この貧しい気持ちは一体何だろうと考える。貧しいこと。それは僕にとって足りない状態ではなく、足りないものを満たすべきものが欠けている状態だ。お金にしても、将来にしても、表現にしてもそうだ。
満たされるべきものは、情動によってのみ決まると思う。それにも2種類あって、それに向かおうというものと、ある情動から逃げようとして到達してしまったというものがあると思う。
前者は飛躍しがちで行き先に広がりがあるので、不整合なところはあるが、可能性を孕んでいる。肯定的である。
後者の行き先はひとつしかなく、整合性はあるが、可能性を精緻化する役割を担っている。否定的である。
否定は弱みの裏返しであるので、好ましくないが、それもまた、必要なものなのだろうと思う。

こういう、一歩手前で止まっているとき、ムリに動きたくない
Ametsub-peaks far a field-


 
 

九州旅行

行程
宮崎空港→鹿児島湾→油津(日南市)→日向市→高千穂峡→竹田市→大観峰(阿蘇市)→熊本空港
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まず、14日の10時30分に鹿児島空港に着く。
その後、近くの鹿児島湾に行く。
はっきり言って何が良いかわからなかったが、その通り、講評では佐々木先生にけなされている。
防波堤の石積みが保存、活用されていることが評価されているのだろう。
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次に、小野寺先生がデザインした油津の広場を見に行く。
油津がある日南市は飫肥杉と呼ばれる杉の産地であり、温度が高く、他の杉よりも強度がある。
その杉を使い、夢見橋は作られている。
小野寺先生は耐久性に弱いことから杉を使うことに難色を示していたが、地元の人が絶対に大丈夫ということで5分の1模型を作り、説得したという地元魂あふれる橋である。「東京の人は杉をわかっていない」という話が印象的だった。専門家とはいえ、地元の知恵には及ばないところがある。両端から片持ちゲルバーの上に部材がもう一つ乗っていて、木材だけで組んであるので美しい。天井も構造物と一体化していておもしろい。天井が曲線で光が入る、広場のレンガなどはルイス・カーンの影響をうかがわせる。
地元の高校生が橋の上のベンチでチュウをしていたのが印象的だった。
zentai.gif
<引用>http://www.m-sugi.com/02/m-sugi_02_ono1.htm
現在は左の植栽ますにゲオが、交差点の角には郵便局がある。このパースを見ると、それは撤去される予定だったらしい。なくなれば、広場へ至る階段がとても効果的だろう。
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油津の堀川運河は江戸時代に、木材を運搬するのに使っていたらしい。
この運河を作るのに、山を削ったというのだから、ものすごい。
現在はほとんど使われていないらしいが、飫肥杉のアピールのために、チョロ船という飫肥杉を使った船が2隻あり、乗らせてもらった。すごい。帆を立てて走ると気持ちよさそー。
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内藤先生がデザインした日向駅。
これも杉を使ってい。透明感があって、なおかつ、構造材がはっきり見えて、美しい。
前の広場も美しい。子どもが水で遊んでいて、人が楽しんでいる風景が良いというのを実感。
コピー ~ P1020017
日向市にある美々津橋。上路スパンドレルブレースト鋼アーチである。
細かいトラスが繊細。水面の表情にはトラスのアーチが合う。東京タワーがシンボルになり得て、スカイツリーが気持ち悪いのはこの辺に鍵があるのではないか。
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溶岩によってできた地形。
岸壁が柱のようである。
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竹田市に行く途中の道で。
山に囲まれた水田の中に民家が点在している。
美しいと思うのは自分をその生活の中に投影しているからに違いない。
そして、美しいと思うことはそこに住みたいということだ。
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最も美しいとされる、白水ダム。
火山灰で地盤が軟弱なため、水流を弱める必要があったため、なだらかな曲面になっている。また、両側の水流は中心に向かっていて、水流が強くなったとしても、弱める働きをしている。
微妙な変化が見るものを飽きさせない。
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大観峰から眺めた阿蘇市。正面には、仏様が寝ているようにみえる寝観音が見える。
なだらかな斜面の山、後ろは牧場であるのだが、そこに囲まれた田んぼの水面が美しい。
誠実な生活の営み、というのはこのような風景のことだろうか。


 
 

さて、明日から九州に旅行に行ってくる。研究室のメンバーで近代土木遺産と、雄大な大地を見てくる。
行動や、思考が閉じこもり気味だった自分にとっては良い経験だろう。
吉本ばななは幼い頃、貧乏であったにも関わらず、父親の吉本隆明に、おいしいものをたくさん食べさせてもらっていたらしい。なぜかと問うと、すぐに消えるものだからと答えたそうだ。また、ホンモノの料理を食べたことのない人はいくらおいしい経験を語ったとしても薄っぺらくなると言う。
確かにそうだろう。三島由紀夫は、ドナルド・キーンに松の木を見て、これは何だ?蛙の鳴き声を聞いてこれは何だ?と聞いたらしい。仮面の告白において、仮面の下には本当の自分がいない、ということがよくわかる。いくら自然の美しさを語ったとしても、それは嘘だと感じる。豊饒の海の第二部、で主人公の飯沼が自刃するときの朝日の美しさは、自殺という行為によってしか美しくない。その虚構が三島由紀夫の魅力なのだが。
とはいえ、やはり、ホンモノによってしか感化されないものはたくさんあるだろう。
文を通じてではなく、直接会った人、写真ではない風景、によって、心のフックに引っかかるものは格段に多くなる。
感受性が乏しい、というか、何事をも受け入れ、吐き出す自分にとっては特に、明確な動機がなくとも、直接に体験することで世界を広げることが重要である。
最近、重要だと考えることは、論理は手段であって、それは自分の直感を万人共通の理解とするためのものであるということだ。直感の出所である想像力を鍛える。また、それは、自分の他人に対する想像力の欠如を補うだろう。今は足りないものを補うため、というレベルの低い生き方をしているが、それには、入り口の前で迷う前に、入り込むべきだ。動機や正当性は関係ない。