ウラノスの憂鬱 - 2011年01月

ウラノスの憂鬱

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BLAME!

BLAME!(10) (アフタヌーンKC)BLAME!(10) (アフタヌーンKC)
(2003/09/22)
弐瓶 勉

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■もうすぐ23歳になる。21歳になった頃から薄々感じていたことだが、映画や小説など様々な作品に出会っても作品世界に心酔することが無くなってきた。もちろん、涙を流すような作品にも出会うけど、自分の世界が広がるという高揚感はない。周囲が既知の空間にすっぽり収まるという感覚だ。周囲とは社会的な制約で、自分に関する客観的な事実で、想像の域を超えない作品の系譜だ。
■本当に心を震わす作品は自分が追い詰められている状態の息抜きのときに出会うことが多いように思う。僕は高校3年生の頃、センター試験が終わった日にBLAME!を全巻買った。北山のヴィレッジ・ヴァンガードで。
■この漫画の想像力の爆発は一体何なんだろうと思う。無限のメガストラクチャーと緻密なディテールが掛け合わさって頭がパンクしそうになる。それと、洗練されたデザイン。作者は建築学科にいただけあって、空間が美しい。建築物は人のために作られるが、暴走した建設者が月を飲み込んでもなお作り続ける建築物は何のためでもない。そのような建築物の内部の空間がモダニズム建築のように幾何学的なオブジェクトの配置によって生まれる緊張感を有しているとしたら。それがさらにこれからもこれまでも人が居た形跡のない廃墟の様相を呈しているとしたら、どんな感覚をもたらすのだろうか。崇高。美。畏怖。Turnerの「修道院廃墟の美」を見たときに感じる崇高さと美の拮抗には絡まる蔦と庭園の水と緑が添えてある。ベクシンスキーの描く絵でさえ、グロテスクながら人と埃がある。過去も現在も未来も感じさせない、感じるのは当たり前のように存在するテクノロジーの暴走。そのような空間で感じるのはア・プリオリで理性的な美か、畏怖による崇高さか。わからない。
Tiësto - Magik Journey
 
 

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
(2010/02/10)
伊藤 計劃

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 僕は、戦争映画が好きだ。地獄の黙示録、フルメタルジャケット、プライベート・ライアン、ブラックホークダウン、スカイクロラをよく見る。戦争の特殊さに魅かれる。最も新しいテクノロジーが戦争に投入されること。そして、兵士の死と殺人と隣り合わせの精神状態。
 911のテロ以降、どのような政治的立場の人も、とりあえず自分の身は守らなければならないと強く感じるようになった。ではもう少し広げるとどうなるのだろう。家族は?自分の地域の人は?自分の国の人は?自分の星の人は?どこまでの命が自分にとって守るべき存在なのかわからない。自分を守るための自分の国の人を守るための殺人と、どこかの国の人の命を救うための殺人はどこがどう違うのだろうか。正しい答えはないと思う。最後の判断は自分の倫理観や良心と照らし合わせるしかないと思うが、その良心や倫理観までもテクノロジーによってコントロールできるとしたらどうなるだろうか。国家の大義のため、故郷の家族のため、隣にいる戦友のため。そんな陳腐な時代によって変わる、自分を正当化するための理由は(残念ながら)テクノロジーによって全て脳内物質の反応に還元されてしまう。
 21世紀のゾンビは前世紀のそれのようにぶらぶら歩いたりはしない。手が千切れても、顔の半分が吹っ飛んでも射撃体勢を崩さない。良心と痛覚を排除した理想の兵士の極限の戦いの描写を読んで、その映像がありありと思い浮かぶ。そこには、ハリウッドの戦争映画に登場する、死を隣り合わせることによってしか生きていることを見出せないマッドな野郎、ブルブルしながら戦う弱虫、十字架にキスをする狙撃手、良心の呵責から精神病を患う上官は存在しない。ただ、殺すことのみを目的とする生体兵器がある。それは殺すことのみを目的とするナイフのデザインが美しいように美しい。それが動く様は2km先の標的に向かう銃弾が描く放物線のように美しい。男ならだれしも、あまり言いたくないが、戦闘シーンを見て興奮することがあると思う。しかし、この小説の戦闘シーンが映像化されるならば興奮よりも美しいと感じると思う。何の道徳にも惑わされずに四肢をもがれてもただ一つの目的を遂行するサイボーグ。Kashiwa Daisuke ― stella

 映画化されるなら、クラヴィス大尉はキアヌ・リーブス、ジョン・ポールはフィリップ・シーモア・ホフマン、ルツィアはアヴァロンのマウゴジャタ・フォレムニャックがいい。戦闘機やポッドのデザインは二瓶勉で、戦闘服はMGSのスニーキングスーツがいい。これが映画化されたらかなり新しい戦争映画になると思うのだけれど、ハリウッドは考えていないかな。All you need is killも映画化されるのに。
 
 

自分に誠実ならば、無力なことなどあるはずがない。そうか、無力という人間は大抵努力していない。

こんなにも長い期間、自分の無力さを感じたことはない。卒業論文の話。書くのが怖い。自分が言いたいことの論理的な根拠を探し、根拠に基づいて概念を自分の調べる対象に適用し、分類の指標を作り、特徴を取り出し、その要因を調べる。どの過程にも論理的な飛躍があって、どの過程にも隙があって、反証できる。色んな情報があって、自分の言いたいことをとりださないと何が言いたいかわからない。
アインシュタインはイメージが先にあって、数式が後から出てくるものと語っていたらしい。僕は自分のイメージを大切にしているだろうか?信頼しているだろうか?僕は自分の直感すら疑っていないだろうか。誰もが理解できる論は自分が作る。今はそれでいい。誰かのためじゃない、自分のために誠実に。

「吟味を欠いた人生というものは人間にとって生きるに値しない。」
-ソクラテス-


その気概だ。僕は既にバッターボックスに立っている。そのことをまず思い出すべきじゃないかな。何にせよ、立ちたくて、立ってきたわけだ。誰かに強制されたわけじゃない。ピッチャーゴロでもいい。見逃し三振でもいい。だから、どんな結果になってもバッターボックスに初めて入った、わくわくした気持ちを思い出すべきじゃないかな。

P.S このレーベルの音楽いいですよ。
flady -Class Disruption-
 
 

祈りの海

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)
(2000/12)
グレッグ イーガン

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 僕は電車の中でよく、本を読む。読む本はそのときの気分によっていろいろあるけれど、最近はSFかファンタジーが多い。グレッグ・イーガンは、順列都市を読んでから、ファンになった。サイバーパンク系の小説はアンドロイドは電気羊の夢を見るか?とニューロマンサーくらいしか読んでいないけど、好きだ。SF小説は時代が違うと、ものすごく陳腐になるものが多いのであまり読んでいない。冷戦の頃の思想、宇宙開発、水素爆弾。こういうのは読んでいてわくわくしない。でも、フィリップ・K・ディックやグレッグ・イーガンはそういう題材をあまり扱っていないせいか、何年経ってもわくわくすることができる。
 インターネットと脳と量子力学が結び付いたとき、ここにいる自分を自分たらしめているのは何なのか?そういう問いが生まれる。以前なら、データ上では自分と全く存在がいることを拒否していたかもしれない。でも最近は違う。僕はときどき、攻殻機動隊の草薙素子のように広大なネットの海に彷徨いたいと思うことがある。それがなぜかは、よく分からない。どうしようもなく自分が今、固定されていることが嫌になることがあるのだ。
 収録されている11の短編のうち、「誘拐」が好きだ。ネット上に存在する現実と全く関係のない妻を助ける男の物語。最愛の人に対する最大の愛しみとはこういうことかもしれないと思った。
Fennesz-Saffron Revolution
 
 

There was a fragile dream

布団に入る前に、さっき書いた文章のことを考えていた。僕は、高校のある時期から空想の都市が印象的なビジュアルに惹かれてきた。それは、ブレードランナーや、トゥモローワールドや、イノセンスや、鉄コン筋クリートや、BLAME!や、池田学や、帝国少年(画像検索の方がいいかもしれない)だ。それらはあまり住みやすくないかもしれない。何しろ、退廃的で、無秩序なイメージが多い。でも、それらの都市に住むことを空想するのはとても楽しい。時々、ぼーっとしながら僕は想像する。僕が持っているあらゆる顔から解き放たれて、都市の中を放浪する。そこには何の責任も、制限もなく、薄く広がる共通の認識で、人々は緩やかに交流する。昨日とあまり変わらない一日を過ごして、僕は中学の担任の言葉を思い出す。人生ニアリーイコール+-0。街をネットサーフィンし、膨大で、緻密な都市を体感し、薄く広がった丘のように、時間軸上に緩やか心の変化が続く。旅が終焉に差し掛かり、僕はこう思う。まるで、夢のような人生だったなと。Blues in the Net - Solid State Society OST
そして、目を覚ます。そして、窓を開けて思う。最近、煙草の量が増えたな、と。