ウラノスの憂鬱 - 2012年03月

ウラノスの憂鬱

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3/17(土)

何かを明らかにするとき、具体的な現象から帰納的に論理を積み上げる方向と、仮定から演繹的に論理を下に降ろしていく二つの方向があると思う。二つの方向は多分、交互に積み重なりながら進んでいく。具体的な現象が積みあがって、直感的なストーリーがあるとき頭に思い浮かぶ。そして目星をつけて証拠を探していく。そしてストーリーを作っていく。どちらも離れすぎてはいけない。

積み上げる方法はある程度、型にはまっていれば後にストーリーを作りやすい。2を説明するために、1+1、と言うのか、1×2、と言うのか、2÷1、と言うのか、その段階で迷っているようならば、本当に混乱してしまう。そのような考え方に陥ったときは、過去にある同様の考え方を参考にすることもできない。これは、説明する対象が少なすぎるのが原因なんだろう。
 
 

3/16(金)

建設的ではない言葉こそ、自分が何かの役割を担っているときに空疎である。
建設的ではない行為こそ、自分が何かの役割を担っているときに空疎である。
建設的な行為は、現状を「より良く」するために行われる。「より良く」とはどういう意味か。「問題」を解決することである。「問題」とはどういう意味か。「何かのために」、何かをするときに、それを妨げるものである。
「何かのために」。社会に出れば、それはほとんど、利益を得るためである。そして、個人にとっては、その利益から支払われる給与のために。どのように目的を見失ったとしても最終的には金を稼ぐことが、目的として残っているわけだ。しかし、その稼いだ金はどこに向かうのだろうか。消費に向かうのだろうか。消費によって満たされるものがあるのだろうか。新しい服、新しいパソコン。
話しはずれるけど、最近、スマホを買った。買う前にいろいろ調べていると、世の中には、新しいガジェットを買うことで満足する人達がいることが分かった。CPUが~、ディスプレイが~とか。余りに情熱的なので、とても満たされているのだろうな、と思った。(有機ディスプレイがPenTileだから駄目、とかよく分からん。そう考えると、iphoneのディスプレイの解像度が眼が認識できる解像度を超えている、という宣伝を見るとAppleのデザインの考え方が他の企業と正反対であることがよく分かる。何ピクセルだとか言われても分からん。)

満たされるとは何だろうかね。同じことをしていても、満たされているときと満たされないときがあるのはなぜだろうね。
 
 

3/15(水)

最近やばいなあ。自分を恨まずにはいられない。そして、それに耐えられなくなったなら他人を恨まずにはいられない。そして、それに耐えられなくなったら、何も、考えたくなくなるのだ。
最近、人と話すとき、言葉が口から出る直前に、それまで言いたかったことが全てどこかへ行き、次にどの単語を口から出すべきか、考えてしまう。その直近に発すべき言葉が強く意識されるがために話す内容は全体としてまとまった意味を持たず、あまりに選択肢が多いために言葉は喉元に収まってしまう。その傾向は、形式張ったゼミの発表に始まり、日常的な会話にも影響を及ぼしてきている。(どういう状態か、具体的に書こうとしたれど全く思い出せない。もしかしたら妄想かもしれないな。)
言葉というのは、特に話言葉は全く難しいもので、一つ一つの単語に意味が宿っているのに、それが複数集まると単語の意味自体を離れて、文全体の文脈として理解される。その文脈というのがやっかいで、相手と自分の知識や経験の共有され具合によって異なる。話言葉を使うコミュニケーションとは、どのような状況であれ、自分が伝えたいことが相手に伝わればよい。そして、相手の反応から、自分が伝えたいことが伝わっているということを推測することによって、成り立つ。そして、これをより円滑に行うためには相手がどの程度、自分の言いたいことを理解できるかを把握していなければならない。これがかなり混乱していると、自分の頭の中だけにある考えが、あたかも相手にも共有されていると勘違いしてしまい、全く意味のないコミュニケーションになってしまう。

言葉の抽象度をコントロールすることは重要だという。抽象度というのは僕の中ではベン図で理解されている。抽象度があがると、円は大きくなり、より多くを包括する概念になる。しかし、概念が抽象的になりすぎると、逆に何を言っているのか、全く分からなくなってしまう。犬とは何か、哺乳類とは何か、動物とは何か、生命とは何か。後者になればなるほど多くの具体的な事物を含むため、説明することは難しい。しかし、一方で抽象度が高い概念を説明できたとするならば、それは、それを包括する全ての事物に対して、決定的に本質的な意味を指し示すことができていると言うことができる。その意味を使い、演繹的に他の具体的な事物に対しても適用することができるから、抽象的に理解することは大切なことなのだろう。また、ぼんやりその人が指し示したいものを想像できるから大切なことなのだろう。
言葉の抽象度をコントロールすることは、どれくらい具体的な事物を話の中に登場させるかということだと思う。具体的な事物のみを登場させれば、理解されやすいが、それは多すぎて、すぐには理解できないという点でコミュニケーションには向いていないし、まず聞いている方も疲れる。相手がどの程度理解しているか分からない場合は、抽象的に話し、相手が説明してほしいと聞かれる部分を具体的に答えられるようにしたらいいのだろう。それは書いてみればその通りである、という内容であるが、これだけはいくら頭で考えても分からない。経験して自分の身にならなければ分からない。

どのような話言葉も相手に伝えることが目的である。それならば、なぜ、このような不完全な伝え方しかできないのだろうか。なぜ、全てをそのままに、脳みそのシナプスの発火の反応毎、伝えられる仕組みでなかったのだろうか。完全に伝わらないからこそ、それを超えたときに最も喜びを覚える、人間とは不思議な生き物である。不完全であるのに、完全を求めてしまう性は一体何なのだろうか。それによって苦しむことが多いのに。

僕はこの前何かがぶっ壊れて、ゼミの発表をしている最中に「一体、今、自分は何を話しているのだろうか。なぜ、こんなに話せないのだろうか。」という疑問を抱いてしまった。「もしかしたら、今まで自分が伝えられていると思っていたことは、その何百分の一しか伝わっていなかったのではないだろうか。それはなぜだろうか。自分が伝えようとしていなかったからではないか。伝えようとしないのは、自分が相手のことを信じていないのと等しい。いや、そもそも単に努力不足で、頭が悪いからなのかもしれない。」という自己嫌悪に陥ってしまった。それ以降、自分の部屋でぼんやりとしていた。


最近、自分は相手に共感する能力が低いのではないかとやっと自覚することができるようになった。相手のことなんてどうでもいい。そして、今の自分は、自分もどうでもいいと考えている。自分がどうでもいいと考えている人に他の人のことなんか考えられるか。一体、今、何のためにこれをやっているのか、何のために働くのか。最近、何に対しても自分の触手が反応せず、何を感じても心が満たされない。周りの人の様子、気温や周りの樹木、暖かいコーヒー、美味しい鍋、空いた時間にほっとすること、おもしろい小説(まあ、これは多少あるか)、おもしろい漫画、萌えアニメ、雑多なまち、きれいなオフィス街、美術館、喫茶店、古本屋、匂い、昼夜、刺激的な音楽、感動する映像、感動するストーリ。全て。本当は腹の底から笑いたい。心の底から泣きたい。今日買ってきた別冊太陽の南方熊楠特集を読んで「書簡に猫のイラストw」とかしょうもないことに気付いて喜びたい。しかし、分からない。
自分が何事も抜きにして充実感を感じられる場面は一体何だっただろうか。自分が何をしていて、周りがどんな状況のときだっただろうか。そもそも、そんなものあったのだろうか。自分が何もかも投げ出してまでそれに没頭したいということ。
自分がこうなった理由は分かる。来年に大学院を卒業するからである。今まで、こうすること、こういう身分を持っている、こういう認識されているのが自分であると保障してくれていたものが無くなるからである。誰もが経験する、「アイデンティティクライシス」。なんだかんだ言っても、とーってもしょうもないことなのである。何だろうな。この文章から感じられる嫌悪感。覚悟を背負っていない、リスクを背負っていないうじうじしたこの惨めな感じ。役に立たないプライドを背負っている感じ。

理由のない悩みは長続きしない。これが理由のない悩みであればいい。どれだけいいか。自分は当たり前のことができていないから悩んでいるのか?当たり前とは何だ?自分がこうあるべきという思い込みが強すぎて悩んでいるのか?理想の自分とかけ離れているから悩んでいるのか?悩んでいるときは、問題を絞って解決法を考えればばいいのか?何???????





-ヴィヨン 軽口のバラード-

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、
法衣を見れば、修道僧の位がわかる、
従者を見れば、主人がわかる、
頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、
誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、
道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、
樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

馬と騾馬の違いもわかる、
馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、
ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、
どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、
起きているか眠っているかもわかる、
ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、
ローマ法王の権威もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、
血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、
すべてに終末をもたらす死もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。