ウラノスの憂鬱 - 2012年05月

ウラノスの憂鬱

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5/24(木)

自分は一体何なんだろうと思う。
自分という器は一生変わらない。
昨日の自分と今日の自分は違うけど、器の形が変わるだけ。
それがとても苛立たしいことは多い。
それが良かったと思うことは少ない。
というのは理想とする自分がいるから。
理想の自分と、自分と思う自分(それは周りの人の鏡に映る自分)が違うから。
その違いに悩むことは若いだとか、希望があるとか、純粋だとか言われることがある。
違いを受け入れることは鈍感だとか、大人だとか言われることがある。

自分の器にしがみつく人は醜い。
自分の器に苦しみながら、器を壊そうとする人は見ていて心地よい。

自分の器。
大事にしている器。
小さな器。

何かをするとき、何かを捨てないと、何もできない。
全てに対して正しいことはない。
何かをするとき、そこには、自分がどうしたいのかという思いが入っている。

関数。
最近、人を関数として考えている。
ブラックボックス。
入出力する処理機構。
可変の処理機構。
質のよい出力には、量の入力が必要。
ロスの少ない入力機構と、有象無象の情報をストックするメモリが必要。
その関数を規定するのは自分の心を守る自己機制。

大切なものを見失っている気がする。
という嘘。
大切なものがあるという風に信じこませるための。

否定というのは恐ろしい。
言葉の頭に否定語をつけると、それは全く逆の意味になる。
言葉の世界以外には否定というものはないのに、否定という言葉を世界に当てはめると、最終的には自分を追い詰める。
否定は何も生まないのに、否定することで、そのもの自体を考えるという思考実験のための道具として使われる。

否定という考えがなぜ思い浮かぶのか。
自分がいなくなる、ということから思い浮かぶのだろうか。
「なぜ、生きているのか」と考えることは、生きることと同じと友人が言っていたが、それも否定の考えから出発している。恐ろしい。自分の存在がもし無かったとしたら、と考えることで自分の存在を確認することはとても恐ろしいことのように思う。
恐ろしい闇に片足を突っ込んでいるような気分である。

死。
死んだらどうなるのか。
小さい頃は死んだあとのことを考えると恐ろしくて眠れなかったものだが、最近はそうでもない。
むしろ、自分を苦しめている自分から開放されることだから幸せだと思う。こともある。
死ぬ気で頑張れとか、自殺する勇気があれば何でもできるだろうという言葉を聞いたことがある。死はそれ自体が一番の否定でその反対から強い原動力が生まれるのかもしれない。
死に対して鈍感であると恐ろしいことになる。
そのような人は死の恐ろしさを実感すべきなのかもしれない。
いや、すぐ隣にある死を感じるべきなのかもしれない。

何だろうか。何にもないのか。
何があるのだろうか。


僕が前に記事を書いたときからいつのまにか一ヶ月が経っている。
この一ヶ月が何かであったということをどういう風に実感できるのだろうか。
自分の頭の中に収めるだけではやっぱり何もなかったことと一緒なのではないか。
ノベルゲーをやって、本を読んでいたとしても、自分の頭が変わるだけで、それは、変わらないのと同じくらい、分からないことだ。
だからこういう風に寝たいのに文字を打つのだろうか。
だから誰かと喋るのだろうか。