ウラノスの憂鬱 - 2014年02月

ウラノスの憂鬱

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4/23(水)

先々週に休養がてら、京都に桜を見に帰った。
土曜日の朝遅くに起きて、家を出ようとすると、父も桜を見に行くと言うので、宝ヶ池公園まで一緒に見に行った。
道すがら、近所の人が美味しいという蕎麦屋でざる蕎麦を食べた。
昔通っていた中学のそばにある店だが、正直、つなぎが多すぎてあまり美味しいとは言えない。
しかし普通の住宅地の一角にある、きどらない雰囲気が居心地よい。
宝ヶ池公園は、孫と遊ぶ祖父母や、カップルや、女性のグループがちらほらいただけで、哲学の道や、川端通りにいる桜を見る人のにぎわいに毎年辟易する身としては、ほどよい花見場所と言えた。
上野公園のように、とにかく密に植わる桜を楽しむというわけではなく、まばらに植わる桜をランドスケープの一部分として楽しむスタイルなので、派手なソメイヨシノはあまり似合わないのかもしれないと思ったりもした。
ソメイヨシノは、どうも華やかすぎて、あまり好きになれない。
ソメイヨシノは、一瞬に咲き散らすことが美学のように語られるけれども、この方は品種改良して、周囲の土の栄養分をずいずい吸い取る桜界のサイボーグなのだから。
しかしサイボーグ桜も映える場所があって、どんちゃん騒ぎの大好きな人達が集まる飛鳥山や上野公園のソメイヨシノはそういう花見の雰囲気にとても合っている。
とはいえ山の中にひっそりと咲く山桜がやはり好きだ。吉野山の桜は一度は見に行かねばなるまい。
松ヶ崎の浄水場の近くの桜もきれいだった。

名古屋に住んでから京都に帰る度に京都は人を惹きつける魅力があると感じるようになったのだけれど、ちょっとした水路の脇に草が生えていて桜が咲いている、というような、住宅地にたまに現れる隙間がとても多いからではないだろうかと思う。まちの中にさりげなく山が入り込んでいるというというところに、どうあってもとれない染みのような人間臭さが感じられる。
その点、名古屋には、そういう隙が駐車場で占められていて、あまり愛着が持てない。
住みにくくはないけれど、離れるときは何の未練もなく離れられるようなとても都合のよいまちだ。
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2/5(水)

月明かりしかない夜に道が分からなくなれば、北極星を見つけることで、自分の進むべき方向が分かる。
死ぬほど辛いことは、進むべき道が分からなくなることだが、ふとしたときにそれを恐れて暗闇の中を高速で進む電車に乗ることの恐ろしさが襲う。
電車が止まっている時間が短ければ短いほど、自省するときの苦しみが大きい。

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2/4(火)

今、ここにいる自分を引き受けて生活することは、思う以上に自分を追い詰め、心を煩わせる。
なぜなら、苦しいことがあったとしても、他にあり得た自分、これからあり得る自分という空想に、自分の可能性を留保して逃げることができない。
どんなに苦しいことがあっても、決めなければいけない。自分を縛らなければならない。
秋に実家に帰ったときに、紅葉がとても美しかった。思いもよらずに心が揺さぶられたその風景は、そのように凝り固まった生活に彩りを与えてくれた。


旭川