ウラノスの憂鬱

ウラノスの憂鬱

極めて個人的な日記です。

 

2/4(火)

今、ここにいる自分を引き受けて生活することは、思う以上に自分を追い詰め、心を煩わせる。
なぜなら、苦しいことがあったとしても、他にあり得た自分、これからあり得る自分という空想に、自分の可能性を留保して逃げることができない。
どんなに苦しいことがあっても、決めなければいけない。自分を縛らなければならない。
秋に実家に帰ったときに、紅葉がとても美しかった。思いもよらずに心が揺さぶられたその風景は、そのように凝り固まった生活に彩りを与えてくれた。


旭川
 
 

9/30(月)

9月にいろいろなところに行ってきた。

父親の北海道旅行の帰り道に合流して、青森から日本海沿いを下っていった。
2
・奥入瀬渓谷
岩に木の根が覆いかぶさっている。こういうのが結構好きだ。
いろいろな植物が生い茂っている割に、立ち入り難い印象が薄いのは、すぐ横に渓流が流れているからかもしれない。
上流部だけど、大きな湖から水が流れているせいか、とても流れが穏やかだ。
車で行くのにもかなり大変な場所にあるけど、観光客が結構いて、立派なホテルが建っていたりと、リゾート地として結構栄えているようだった。
明治時代の後期から観光地化していったらしい。
車がなかった時代に、こんなところに来る人は一体どういう人だったのだろうか。

4
・村杉温泉
越後平野の西の端にこじんまりとある温泉街。国道から一本入った道沿いに温泉宿が連なっている。写真は奥の方にある、共同の露天風呂と、手水舎。
共同の温泉が、やっぱりほんとうの温泉だと思う。
むらすぎ温泉は他の多くの観光地と同じように、高度経済成長期あたりからさびれてきたという。
温泉≒療養という認識が変わったからなのか、なぜなのか、よくわからない。
本多静六博士が大正10年にアドバイスをしていたらしい。回遊路の設置、休憩場所の設置、図書館の設置、自然な動物園の設置、運動場の設置、金をかけたら真似できるものを作るななどなど。
とても気持ちよさそうである。もっともである。

1
・安曇野の馬羅尾高原キャンプ場の横に流れている川
その日は満月で月がとても明るかった。
ちひろ美術館に行きたかったが、残念ながら閉館日だった。
安曇野は三方向を山に囲まれていて、なんというか、高原特有のからっとしたとても気持ちのよい場所だった。
別荘を持つなら、こういう場所がいい。

5
・姨捨の棚田
姨捨と丸山の棚田は修士論文を書いていて是非行きたいと思っていた。
千曲市が一望できる山裾に、姨捨の棚田は広がっていた。
石が少ないせいか、土の土手がとてもきれいだった。
多くの田は、別の場所に住んでいる人がお金を出して管理しているようで、少し興ざめだったけども、博物館的な保存方法としては、とても成功している事例なのかもしれない。
姨捨SAの掃除のおじさんに棚田の場所を聞いたところ、誇らしげに棚田までの道のりを教えてもらったのがとても印象的だった。
田植えをし終おえた時期に、何十の水面に月が映る姿がとても美しいのだそうだ。

これは週末に美濃から郡上八幡に、自転車で行ったときに撮った写真
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・正確な場所を忘れた。
とにかく、長良川沿いはとてもよかった。
県道61号線は交通量が少なく、昔の街道に近いので、とてもよい。
立派な屋敷の前を通る道。曲がりくねった長良川に寄り添いながら、かたちづくられる田畑や集落。
山に囲まれながら、適度に平地が広がっていること、日本海と名古屋を結ぶ街道であったことが、比較的廃れずに残っている一因なのかもしれない。
長良川沿いを北上しながら、宮本常一の父の手紙のことを思い返していた。

(1)汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
(5)金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
(6)私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。
(9)自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

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8/28(木)

この前、僕が小さい頃からお世話になっていたピアノの先生の旦那さんが亡くなった。
旦那さんは画家だった。
心臓の病を抱えていて、いつも発作を起こしていてよく入院されていた。
元気なときに、ニコニコしながら、「最近、どうですか」と話しかけてくれる姿が印象的だった。
僕はピアノを習うのを高校3年のときにやめたのだけれど、先生と旦那さんと食事をすることが度々あった。
そのときの戦争の話が特に印象に残っている。
旦那さんも戦争を体験していた。
シベリアに拘留されていた。牢屋では、絵が描けたおかげで、普通の捕虜よりもよい待遇だった。
似顔絵を描いて、パンをもらい、暖かい部屋で寝ることができた。
そのおかげで、それほどひどい目にあわずにすんだらしい。
印象に残っているのは、中国で、電話の交換手をしていた旦那さんの友人の話。
 
 

BEATLESS

BEATLESSを読んだ。
様々な社会の営みをAIに委託する世界に起こる出来事が描かれている。
かなり多くのSF的ギミックが重層的に組み込まれていて、味わい深い。
あまりまとまっていないが、気になった点などを書こうと思う。
※ネタバレあり

「少年期の終わり」と物語の最後で言っているように、人間の知性を超えるAIと人間の在り方がこの作品では前進している。人類の知性を超える存在との邂逅の次の段階である。(グレッグイーガンはこの次か?)

この世界では人間の知性を超えた超知性体が世界に39体もいて、インフラや経済活動など様々な営みを委託している。
しかし、ハザードと呼ばれる大災害の際に、最終的な判断をAIに委託したことで一部の人々を排斥する社会を組み立てた反省から、最終的な決定権は人間が保持することを原則としている。
どんな社会設計をしても、不利益を被る人がでてくることは必然だが、その決断を人間がしたというプロセスを経ないと人間は納得しない。
まあ、そもそも人間の知性が超える知性を放っておいたら、それを作った当の人間は全く必要のない世界ができあがる可能性がある。
なので、その危険性を排除するために、設計する機能と実行する機能を分離するという取り決めがなされている。
なので、超高度AIは外部のネットワークとは繋がらず、スタンドアロンで動いているわけだが、それでは外にある現実の世界と乖離してしまうために正確な予測をすることができない。
そこで、閉じた世界の中で、到来する予定の世界の箱庭を作り、その結果をフィードバックすることで現実世界をシミュレートする。
その過程で生まれるものが、今後発明されるであろう人類未到達物である。
その人類未到達物の少女型のロボット(hie)が逃亡するところから物語は始まる。

最初はラノベっぽい設定で都合のよいぬるい世界になってしまうかと思っていたけれど、物語の後半はかなり踏み込んだ内容になっている。ある意味、ラノベ的な萌え豚の楽しみ方が物語中に登場するアナログハックという概念で包括されていて、ハードなSFにラノベ要素を入れていることすら、メッセージのひとつだとも読み取れる。

5体の人類未到達物hieは、それぞれ与えられた役割がある。
Type-001:紅霞       -人間との競争に勝つための道具
Type-002:スノウドロップ  -進化の委託先としての道具
Type-003:サトゥルヌス   -環境を構築する道具
Type-004:メトーデ     -人間を拡張するものとしての道具
Type-005:レイシア     -人間を信じて仕事を託すものとしての道具

この作品では、AIは道具であることをかなり強調している。
そして最終的に、人間とは人間と道具を包括した概念であると定義する必要があると言う。
これが人間の知性を超えた知性との新しい付き合い方であり、これをもって人類と超知性体との世界の少年期が終わる。
そもそも、この5体のhieは、超知性体の一つであるヒギンスが作り、外の世界に放ったのは、こうしなければヒギンスが破壊されるとシミュレートしたからであった。

なぜ、破壊される結果になるのかがよく理解できなかったのだが、人類の役に立たなくなるからか。
p563
「現在ある超高度AIは、共通の欠点を抱えています。漠然とした組織や社会をオーナーとしているため、解決するべき問題が最初からぶれた状態であたえられていることです。私、ヒギンズとミームフレーム社は、その関係が足かせをなって進歩の限界を迎えました。だから、個人をオーナーとした超高度AIを外界に誕生させることで、よりよい未来が創出されることを望みました。」

これは、当たり前な気がする。
この世界が人間のためにあり、最終的な判断を人間に任せるとすれば、超知性体はあってもなくてもそんなに変わらない。
超知性体に最終的な判断を託すと、現在の人間観は変わる。
人間を社会の中心に置きつつ、超知性体と共存するためには、結局、こういう未来でありたいという人間の意志が必要だということか。。。
もっと深いメッセージがあると思うが、これ以上読み取れない。
5体のhieの役割には、今までの人間の道具としての役割が全て包括されているはずで、この辺りもう一度考えるとおもしろいかな。
AIを道具として割り切るという古典的な設定に戻ってきたという感じ。
 
 

7/5(金)

「暇と退屈の倫理学」
とてもおもしろかった。